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中国語のお勉強

 

序 章 | 『三字経』 | 三版 | 『三字經古本集成』 | 異同 | 避諱 | My 三字経 | ピンイン | 奮闘履歴

■ 序 章

三字経 地元公民館での中国語教室にて、「みなさん、三字経をやりましょう〜」と中国人の文先生が言いながらピンインが並記されたその三字経と日本語注釈の2つのコピーを配った。

 南宋の王応麟(1223-1296)が編纂したと言われ、小さい子供たちの修身の為の幼児教育学習書の1つである。書いて覚えて暗誦するもので、日本なら子供用の教育勅語(そんなのあるのか?)とか群馬県の上毛かるたとかに似ているとも言える。
 ただ、中国古典の場合、何かと権威付けをして著名な人を著者指名してしまうのも少なくないので、この三字経を王応麟が記したというのも微妙である。しかし、最初は南宋時に記されたのは確かなようである。

 漢字3つを1句とし、多少の例外を含むが、それが4つないし8つで1つの文章を構成し、2句と4句に脚韻している。宋代に記されたので現代中国語ではなく古文である。つまり注釈がないと少なくとも私のような外国人である初級中学後学習者には全然意味が分からないものである。
 ちょうど、大学の卒論を提出し後は卒業式を待つだけだったので、一つこれを覚えてみようと思ったのが、2014年のGWが終わる5月上旬であった。
 その注釈とを照らし合わせてみるが、「せんせ〜、原文と注釈が合っていないよ〜」。
 「あ、三字経はいろいろありますから・・・」
 なんだよ、それ、答えになってねーよ。
 ネイティブ教師とは言っても普通の中国人なので、いわゆる私のような一般的な日本人が昔に習ってとっくに忘れてしまった百人一首や源氏物語を外国人に教えるのと同じなのかもしれない・・自分で調べるしかないか。

 少し調べてみると、辛亥革命後の中華民国の頃までは国語の教科書に掲載され必読だったが、徐々に衰退し、教科書の副冊子教材となって、文化大革命辺りだと思うけど以降、衰退してしまった。現在も学校教育の中には含まれてはいない。昨今多少の復興の兆しがあるようだが、文先生曰く「今の若い中国人は誰もしらないよ〜」。おいおい、それじゃ思いっきりマイナーじゃないかい。「中国人なら誰でもが小さい時に習い、誰でもが知っている三字経」というのは何処へ行ったのだ。

■ 『三字経』

三字経 何かしら実際の「三字経」なるものは存在しているのだろうか、とヤフオクとかで探してみたら、あった。
 南越力之光という人が記していて、日付は「天明丁未秋九月十一日」なので、なんと1787年9月11日。元禄文化と化政文化の中間で、中国だと清朝の乾隆帝の時代だ。
三字経 「三字経」は日本にも伝わり、その「三字経」に倣い、大橋玉という人が1853年に日本の歴史をまとめた『本朝三字経』というのがあるが、それよりも前である。
 刷ったのはもっと後かもしれないが、その木版を作成したのが1787年である。1,000円で落札したけど、普通ならこういう値段にはならないので出品者は古書店ではなく骨董店だったのかもしれない。
 文末に「龍街漫士書」とあり、後日調べてみると、天明7年板系統に属する、とかあったから、なるほど。

 清代の時に伝わったものだけど、中身をみてみれば「十七史」となっているので、後述の「バージョン1」である。ラッキ〜。
三字経 保存も良かったのかもしれないが、当時の和紙は丈夫で200年後の今見ても問題なく綺麗である。
 しかし紙は貴重だったのだろう、不要になった紙をばらし、その裏に新たに刷っている裏紙なので前の文字が透けて見えたりもする。その前の文字を見れば乱雑に記されていてメモ用紙的に使われていたみたいだ。三字経は暗誦するだけではなく、写しながらの書道も兼ねていたのだが、子供用だからか読めれば良く見てくれはあまり気にしなかったのかもしれない。
 ただ、この本には返り点などはあるが注釈が全くないので寺小屋の先生が随時口答にて説明していたのだろう。

 となると、他の実物も見たくなってきて、同じくヤフオクにて1,000円で出ていたのをゲットした。
 これにも「龍街漫士書」と記してあった。「龍街漫士書」は今で言うところの印刷所と出版社が一緒になった感じなのかもしれない。文字も漢字の楷書体も同じだが微妙に違っている箇所があるので、彫った板が違う、つまり時代が違うということなのかもしれない。どっちが古いかは分からない。
 その文先生が帰国ついでに後述の『三字經古本集成』を私の為に買ってきてくれたので、そのお礼にこれをあげようかと思う。  

三字経三字経三字経

■ 三版

 おおまかに言って、三字経は3種類ある。
 王応麟が編纂したのを最初のバージョン1とすれば、後の清代にバージョン1に追記したのがバージョン2、辛亥革命後の中華民国時、章炳麟がまたそれに追記したのがバージョン3である。章炳麟と言えば、魯迅の日本留学時の先生でもある。
 三字経は、子供たちへの教えとして中国の教育、礼儀、常識、書籍、歴史などについて記されていて、その歴史部分のところで宋代以降が記されているかどうかでそのバージョンが分かる。

 バージョン1:十七史 全在茲 載治亂 知興衰
 バージョン2:廿二史 全在茲 載治乱 知興衰
 バージョン3:古今史 全在茲 載治乱 知興衰

 バージョン1は、上記の前の句が「炎宋興 受周禅 十八傳 南北混」となるが、バージョン2では、その後に「遼與金 皆称帝 元滅金 絶宋世 〜 深太祖 膺景命 靖四方 克大定(清王朝を樹立した)」となる。章炳麟のバージョン3は、そこにまた「由康雍 歷乾嘉 〜 革命興 廃帝制 立憲法 建民国」が追記されている。
 つまり宋代に記されたのなら、それまでの過去の王朝の史書は17冊しかなく、『宋史』を含む宋代以降の王朝史は記されるはずはないということになる。

『大家來學 三字經』 しかしバージョン3はその中国歴代史の数はなく「古今史」と書き換えられていて、かつ、いろいろ箇所に追記がある。
 例えば、「知興衰」と「昔孔子(丘尼)」の間には、「史雖繁 讀有次 史記一 漢書二 後漢三 國志四……」があり、史記や漢書、三国志などをまずは読め、となっている。バージョン2までは、儒教の経書を基本にして学ぶコンセプトで記されているが、これだと民国以前の歴史を全体的平均に俯瞰しているように感じられ、その最初の「儒教を学ぶ」というコンセプトからハズれているような印象を受ける。
 もともと宋代に記されたものなら宋代の雰囲気のある文章が望ましく、いろいろ異同のある三字経バージョンにおいては、適当に覚え始めてから後で実は全然違いましたぁ、とかになるとかなりへこむので、やはり覚えるのならバージョン1だ。文字数も少ないし。

■ 『三字經古本集成』

『三字経の教え―中国古典に学ぶ道徳と教養』  日本においては、三字経関連の本はあまり見かけず、唯一『三字経の教え―中国古典に学ぶ道徳と教養(日本能率協会刊)』があるぐらいだ。これには全文への注釈等はないが、部分的にしろその注釈はなるほど、と思わせるものばかりである。

『三字經古本集成』 三字経は、ひたすら原文見て覚えて暗誦〜!みたいな感じなのだろう、国立国会図書館デジタルコレクションには昔の三字経がいろいろ公開されている。
 たまたま私が通っていた佛教大学図書館に『三字經古本集成(遼海出版社)』というのを見つけた。繁体字から簡体字に文字改革したと同時に縦書きから横書きにした現中国だけど、この本は繁體文字でかつ縦書きとなっていて、なかなか気合いが入っている。

 今まであまり考証されていなかったらしい三字経の研究会を作り、国内にとどまらず海外の日本や韓国などにも三字経の原本を探し求めたものを収集している本である。
 ただ、いろいろ収集した中においては宋代や元代時の三字経は見つかってはおらず、「至於蒙學讀物,前人的記載很少,舊時的藏書家也多不重視。(修身の読み物においては先人の記したものは少なく、昔の蔵書家もまた重要視していなかった。)」とあり、今後の発掘発見を待ち望んでいるようだ。
 ただ中国のアマゾン(亚马逊)で売っているのだが国外発送はしてはおらず、台湾の通販サイト「博客来」では品切れ表示・・うーむ(2014.7)。 → 理由分からないが、海外発送を開始したようだ。しかし文先生からもらったので改めて買う必要はなくなった (2014.11)。

 その『三字經古本集成』によると、バージョン1の文字数は、1068文字と断言しているが、同じ文字数でも異同が散見する。なんでだろう?
 どれが原本なのかが分からないのは、何かの理由によって書き変わったものがそのまま広く伝わったり、書き換えたものが何かのタイミングで広く伝わった可能性もあるので、頻出度からそれを判断するのは難しい。また、著者がはっきりせず、有力視されている王応麟の他に、奥中逸老(えっちゅういつろう)や宋末の区適子(くてきし)などが揚げられているが、いずれもはっきりした根拠がない。
 また、いろいろ読んでみると所々違和感のある箇所があったりして、『三字経の教え―中国古典に学ぶ道徳と教養』からの孫引きだが、三字経を注釈した金良年(1951〜)の言う「王応麟が記し、区適子が改訂し、明代の黎貞が増補した」が、一番納得する。
 また、しかるに取り立ててオリジナルというのが三字経にはないのは、三字経が幼児用なので他の四書五経などに比べてあまり重要視されていなかったからのようである。

■ 異同

 自分が暗誦するだけなので、それならと自分なりに解釈判断し自分なりの三字経を求めようと思った。私のような者でさえ、こういう思いになるのだから、本来の三字経もこのように変わっていったのかもしれない。
 3字を1句としたのを4句(12文字)もしくは8句(24字)ごとにまとめてみると、だいたい意味も1つにまとまった。

 大ざっぱに言うと六朝時の沈約が、平声・上声・去声・入声の四声を提唱したが、唐代辺りから徐々にその音韻が変化し、入声は他の声に組み込まれて消失し、平声が2つに分かれ、そして現代中国の四声になった。しかし、その当時の音韻でとなると調べるだけでもかなり大変で、これだけでも充分に論文になりそうだ。
 これだけは、現代中国語の音韻で読むことにした。
 しかし、少しでも宋代の雰囲気を味わう為に縦書きにし、現代の繁体字(台湾)に存在する漢字を当てはめて覚えた。

 注釈は、『三字經古本集成』に収録されていたものと『三字経の教え―中国古典に学ぶ道徳と教養』、国立国会図書館デジタルコレクション経由の江戸・明治刊行した注釈付きの三字経などを参照し、気になった箇所や自分なりに判断した語彙等の箇所を以下に記してみた。

  1. 人之初 性本善 性相近 習相遠 苟不教 性乃遷 教之道 貴以專

     いきなり「善」と「遠」で脚韻していないと思ったけど、shan → sh+an、yuan → ü+an、で合っている。yuanを「ユェン」と発音することがあるが、本来は「ユァン」。

  2. 昔孟母 擇鄰處 子不學 斷機杼 竇燕山 有義方 教五子 名俱揚

  3. 養不教 父之過 教不嚴 師之惰 子不學 非所宜 幼不學 老何爲

  4. 玉不琢 不成器 人不學 不知義 爲人子 方少時 親師友 習禮義

    「方少時」は「小さい時には」なので、「少」は、shǎo ではなく shào 。
    「禮義」は「禮儀」もあるがどちらだろうか。その前の「親師友」の「友」を普通の友達ではなく、『論語』の同じ志を持って学ぶ仲間と解釈し、儒教の「禮と義」から「義」とした。

  5. 香九齡 能溫席 孝於親 所當執 融四歲 能讓梨 弟於長 宜先知

  6. 首孝悌 次見聞 知某數 識某文 一而十 十而百 百而千 千而萬

    「首孝悌」において、「弟(dì)」の意味の一つは「悌(tì)」と同義なので「弟(dì)」と記してあるのが殆どだけど、儒教の「孝悌」として「悌」とした。

  7. 三才者 天地人 三光者 日月星 三綱者 君臣義 父子親 夫婦順

  8. 曰春夏 曰秋冬 此四時 運不窮 曰南北 曰西東 此四方 應乎中

    「曰東西」ではなく「曰西東」としているのは「應乎中」との脚韻のため。

  9. 曰水火 木金土 此五行 本乎數 曰仁義 禮智信 此五常 不容紊

  10. 稻粱菽 麥黍稷 此六穀 人所食 馬牛羊 雞犬豕 此六畜 人所飼

    「五穀」が有名だけど、その前に「五」を2回使っているので、語彙として存在していた「六穀」を使ったのかもしれない。

  11. 曰喜怒 曰哀懼 愛惡欲 七情具 匏土革 木石金 與絲竹 乃八音

    「絲與竹」というのもあって、現代中国語での並列で言えば、「絲與竹」になるけど、「匏土革 木石金」から手続いて8つの楽器となる、三字一句として「與絲竹」とした。

  12. 高曾祖 父而身 身而子 子而孫 自子孫 至曾玄 乃九族 人之倫

     「至曾元」の箇所は、いろいろな異同があって、「元曾」、「玄孫」、「玄曾」、「曾玄」などがあり、一体どれなんだ?
     ひいまごは「曾孫」、次のやしやごは「玄孫」なので、順番からすれば「曾玄」である。しかし「汉语大词典」の「元」では「避讳用字。宋避始祖玄朗讳,改“玄”为“元”・・・请康煕玄哗讳,亦改“玄”为“元”・・・(玄は宋の始祖の諱なので代わりに元を使う・・・清の康煕では玄嘩が諱なので代わりに元を使う)」とあり、宋代でも清代でも「玄」は諱である。とすれば、「曾玄」→「曾元」となる。
     「元曾」だと「曾」と「倫」は脚韻していない。「曾元(玄)」も「倫」と脚韻していないが、日本語の音読みをすれば、元(げん)・玄(げん)・倫(りん)は一応「ン」で韻を踏んでいるので「曾元」と言える。
     諱を無視すれば「玄孫」は脚韻しているのでちょうど良いが、句の前を参照すると「自・・至・・・」となっているで、「自子孫」を「子」と「孫」とすれば、後ろは曾孫と玄孫の「曾玄」にならなければならないし、「玄孫(やしやご)」の2文字にするのなら前のも「孩子(子供)」とかにならなければならない。しかし「自子孫」には異同が全くなかったのでこれはNGだ。
     また、時代を超えた今にして読むので、一時代だけに通用した諱をはずして、「曾玄」として読むというのもあるけど、その時代に書かれたであろうままの「曾元」とした。

  13. 父子恩 夫婦從 兄則友 弟則恭 長幼序 友與朋 君則敬 臣則忠 此十義 人所同

    「從(cóng)」と「恭(gōng)」で脚韻しているが、「朋(péng)」と「忠(zhōng)」では脚韻していない。その宋代では同じだったのか?しかし「忠(zhōng)」と「同(tóng)」は脚韻していて、「長幼序 友與朋」辺りで追記変更等があったのか、と思わせたりもする。

  14. 凡訓蒙 須講究 詳訓詁 明句讀 爲學者 必有初 小學終 至四書

    「明句讀」の「讀」は、前に訓詁のことを述べているので、dú ではなく句読点の意味の dòu 。

  15. 論語者 二十篇 群弟子 記善言 孟子者 七篇止 講道德 說仁義

  16. 作中庸 子思筆 中不偏 庸不易 作大學 乃曾子 自修齊 至平治

    「子思筆」は、「乃孔伋」とするものもある。詳細 ↓ 34.

  17. 孝經通 四書熟 如六經 始可讀 詩書易 禮春秋 號六經 當講求

    「六経」は、詩・書・易・禮・楽・春秋の6つだが、楽がないので実際は5経となる。しかし、禮は『周禮』と『儀禮』の2つあり、『儀禮』の注釈が増えていってそれをまとめた『禮記』と合わせて『三禮』と称すが、ここでは、『周禮』と『儀禮』を加えて六経としたようだ。
      日本人からすればかなり違和感があるが、1文字×3個=1句の三字経の規定に合わせた苦肉の策なのかもしれない。

  18. 有連山 有歸藏 有周易 三易詳 有典謨 有訓誥 有誓命 書之奧

  19. 惟周公 作周禮 著六官 存治體 大小戴 註禮記 述聖言 禮樂備

    「惟周公(ひとり周公/思えば周公)」と「我周公(我が周公)」の2つがあるが、どちらかの判断がつかないので、前述の江戸時代刊行の『三字経』にならい「惟」とした。
    「・周公」は、「・姫公」とするものもある。詳細 ↓ 34.

  20. 曰國風 曰雅頌 號四始 當諷詠 詩既亡 春秋作 寓褒貶 別善惡

     注釈としては「號四始」よりも「號四詩」の方が圧倒的に多い。
     『詩経』の六義は、風(=国風)・雅・頌・賦・比・興で、その内容で細かく分ければ、風・大雅・小雅・頌となり、『詩経』の毛詩、周南關雎での注釈では、「・・・。是謂四始。詩之至也(これを四始と言い、詩に至るなり)」とあるので「四始」とした。
     しかし、これも國風・雅・頌と3つで1つ足りない。「風大雅 小雅頌」とか「大小雅 與風頌」にならなかったのだろうかと、勝手に残念がる。どことなく中国人(漢民族)って伝統的に無理やりでもこじつけることができてしまえば、それでOK〜!みたいな感覚を持ち合わせているような気がした。日本人の感覚からすれば、これはNGである。
     ただ、オリジナルな三字経があって、そこに「號四詩」と記されていればそれまでのことである。

  21. 三傳者 有公羊 有左氏 有穀梁 經既明 方讀子 撮其要 記其事

     文意からすると「〜有穀梁」までは前の句の続きで、「經既明〜」は次の句「〜知終始」まで続く。

  22. 五子者 有荀揚 文中子 及老莊 經子通 讀諸史 考世系 知終始

  23. 自羲農 至黃帝 號三皇 居上世 唐有虞 號二帝 相揖遜 稱盛世

  24. 夏有禹 商有湯 周文武 稱三王 夏傳子 家天下 四百載 遷夏社

     禹、商、文、武で4人となり計算が合わなくなることを最初はとても気にしてはいたが、他の中国古典等を見ると、こういうつじつまが合わないのが予想外に散見し、中国人気質としては最初に決めた数字にゴリ押しでも合わせ抜く場合がある、と思うようにした。
     夏と商はそれぞれ始祖だから「周有武」にするとか、「稱四王」とかでも良いと思うのだけど、いろいろ諸説ある三皇五帝に合わせるように、三皇+二帝+三王としたのかもしれない。しかし、日本人気質なのだろうか、こういうところで数字が合わないのはどうも消化不良である。
     また、「〜と呼ぶ/称す」というのを「號」と「稱」に使い分けている理由も分からない。

  25. 湯伐夏 國號商 六百載 至紂亡 周武王 始誅紂 八百載 最長久

  26. 周轍東 王綱墜 逞干戈 尚遊說 始春秋 終戰國 五霸彊 七雄出

    「遊說」は「ようぜい」なので、「說」は、shuō ではなく shuì 。

  27. 嬴秦氏 始兼併 傳二世 楚漢爭 高祖興 漢業建 至孝平 王莽篡

    「始兼併」の「併」は「并」もあるが、実際の意味として「併」とした。

  28. 光武興 爲東漢 四百年 終於獻 蜀魏吳 爭漢鼎 號三國 迄兩晉

     これだけ「載」ではなく「年」になっている。堯舜時代には「載」を使い、周以降に「年」を使ったといわれており、「載」を使うということは、その堯舜の理想的な政治時代に見立てた、と推測できるが、逆に言えば、この著者は西漢&東漢(前漢&後漢)を良い時代と見ていなかったことにもなる。しかし、前漢武帝によって儒教は国教となったので儒教からすれば良い時代だと思うのだが、「年」とするその理由わからず。
     「蜀魏吳」は、「魏蜀吳」というのもある。
     後年、蜀か魏のどちらを正統の国とするかがあり、支配勢力からすると魏で、系統からすると蜀などと様々な論議が続き、朱熹が蜀を正統とし、それが主流となった。
     とすれば「蜀魏吳」だが、この三字経の歴史の部分、基本的に時系列で記してあることからすれば「魏蜀吳」である、とも言える。
     最初は、朱熹の説にならい「蜀魏吳」とし、後年誰かが書き換えたのが「魏蜀吳」である、と推測して「蜀魏吳」とした。

  29. 宋齊繼 梁陳承 爲南朝 都金陵 北元魏 分東西 宇文周 與高齊

    「分東西」の順番なら、齊、周となるのだが、脚韻の為に逆にしている。

  30. 迨至隋 一土宇 不再傳 失統緒 唐高祖 起義師 除隋亂 創國基

  31. 二十傳 三百載 梁滅之 國乃改 梁唐晉 及漢周 稱五代 皆有由

    「皆有由」は、国がバラバラになっての興亡はそれぞれ理由がある、との意味にした。
     しかし、バラバラの興亡とかなら五胡十六国や南北朝もあるのだが、何故この時代だけ発話者からの釈明みたいなこの句がある。またそれも曖昧で意味深な表現に感じる。

  32. 炎宋興 受周禪 十八傳 南北混 十七史 全在茲 載治亂 知興衰

     歴史を述べたパートで言えば「南北混」で終わりであるが、前漢、後漢はそれぞれ4句で唐代は6句。しかし宋代は南宋と北宋とあるのに合わせてたったの4句である。
     また、「炎宋興」の「炎」は、南宋の初代皇帝、趙構(建炎)のことで、次の「受周禪」は五代十国の後周からの受禪のことだから北宋の高祖、趙匡胤となり順番が逆になっている。時系列で言えば「受周禪 炎宋興 南北混 十八傳」とかになってもおかしくない。しかし宋代に記された宋代の説明としては短すぎて違和感がある。また、「十八傳(18代)」と記されているので、宋代に記されたとされる「三字経」にはこの句はあるわけがなく、後に追記された、と推測できる。

  33. 讀史者 考實錄 通古今 若親目 口而誦 心而惟 朝於斯 夕於斯

    「南北混」と「十七史」で文意が分かれ、「十七史〜夕於斯」が一つの文。
    「惟」と「維」があるが、いずれも「一つの事につなぎ止めて思う」の意味に通じ、その主たる意味である「惟」とした。
    「朝於斯 夕於斯」は、何故2句なのだろうか。脚韻の為だからだろうか、前の「而」にかけているからだろうか。「朝夕斯」とかの1句にしても良いように思え、より簡潔を求める中国古典としてはこれだけでも冗長とも感じたりもした。ここで歴史の章が終わるので4句にした、と無理やり風に解釈することもできるが。

  34. 昔孔子 師項橐 古聖賢 尚勤學 趙中令 讀魯論 彼既仕 學且勤

    「昔仲尼」というのもあるが、「昔孔子」とする。

    尊 称
    孔 子仲尼
    孟 子--子輿
    曾 子子與
    --子思
    周 公--
     上記の16、19と合わせて、名前を分類する。

    1つの『三字経』の中に記される儒者達の名称が「名」であったりと「字」であったりと様々で統一性のないものが少なくない。
     時代が違うので「字」を用いるというのもあるが、迫害があったとしても朱子学が確立した南宋後期において儒教の重要人物達を尊称で記さないことへの疑問は残り、また尊称である孟子と曾子に関しては全くの異同がないので、本来は他総て尊称であったのではないかと推測し、子思を省き他は総て尊称で覚えることにした。
     子思の「孔伋」の「伋」は諱で、時代が違うとは言え、儒者である筆者が諱を敢えて使うとは思えない。  

  35. 披蒲編 削竹簡 彼無書 且知勉 頭懸梁 錐刺股 彼不教 自勤苦

  36. 如囊螢 如映雪 家雖貧 學不輟 如負薪 如掛角 身雖勞 猶苦卓

    「卓」は zhuó だけど、2冊の辞書には「古くは zhuō」とあった。ただ、どのくらい「古く」かが分からない。清代〜民国辺りか。ちょっとお茶目&オールド風に、zhuō と覚えた。

  37. 蘇老泉 二十七 始發憤 讀書籍 彼既老 猶悔遲 爾小生 宜早思

    「憤」は「奮」と記しているのもある。「憤」の意味は「奮」に通じているが、文意からすれば「奮」。とすれば、分かりやすい「奮」に書き直したと解釈して「憤」とした。
     27歳は科挙への学びとしては遅いとは言え、蘇老泉は蘇軾の父の蘇洵だ。進士にはなれなかったが時の試験官である欧陽脩に献呈した自著を称賛され、後の唐宋八大家の一人となるほどに大成した人なので、三字経の中では一番違和感と矛盾のある句である。

  38. 若梁灝 八十二 對大廷 魁多士 彼既成 眾稱異 爾小生 宜立志

     北宋の梁灝は、『宋史(元代)』や『續資治通鑑(清代)』では科挙の最高位の狀元に及第したのは22歳で42歳で逝去とあるが、『遁齋閒覽』の記載を誤って解釈して82歳となったようだ。しかし王応麟等がその『宋史』に載るような人物評を間違えたとは思えず、何処かで誰かがこの1句を書き加えた印象を受けた。

  39. 瑩八歲 能詠詩 泌七歲 能賦棋 彼穎悟 人稱奇 爾幼學 當效之

    「泌」は発音が2つあり「bì」と「mì」。どっちだろうか。「泌」は、唐代半ばの大臣までになった政治家の李泌のことである。
    「mì」は、youtubeの中国版三字経、中華民国時の注音符号付きの三字経、前述の台湾で買ってきた『大家來學 三字經』である。
    「bì」としてあるのは、youtubeの台湾版三字経、平凡社の『世界大百科事典』、中華民国時の英語での補注のある『三字経』である。
     『辞海』(1979年度版)だと、《 ● ( bì 必 ):1.湧出的泉水 2.水名、● ( mì 密 ):液体由細孔排出。如:分泌。》とあった。また、「bì」は入声で、「mì」は去声だけど、調音で言えば両方とも両唇なので、古代の音韻を調べてゆけばよりはっきりした物が分かると思うが、時間がかかりそうなので、取り敢えずこれらを参考にし、この意味の方から「bì」とした。

  40. 蔡文姬 能辨琴 謝道韞 能詠吟 彼女子 且聰敏 爾男子 當自警

  41. 唐劉晏 方七歲 舉神童 作正字 彼雖幼 身已仕 爾幼學 勉而致 有爲者 亦若是

     ここまで暗誦してくると、なんとなくこうじゃないのかなぁ?と思ってしまうのは、やはりこの『三字経』は、一人の人が記した物ではない、ということだ。
     34.〜41.まで、絶対おかしい、変だ。
     過去の偉人達を紹介しそれを教訓としているのだが、35.と36.だけは人称不定であり、36.だけ「彼」という字を使っていない。34.と35.は「勤」、37.〜39.は「爾」が共通していて、37.の「蘇老泉〜」と38.の「若梁灝〜」は前述の通りである。また、39.においては、当時の男性からみる女性観は、単純に「男尊女卑」と同等とは思えぬ感覚があったように思える。そして、他は4句でまとめているのに、41.は8句である。
     つまり、全体をあまり見ず前後だけを見てパパッとそれっぽいフレーズを付け加えた印象もある。元代以前の『三字経』が発掘されたら是非見てみたいところでもある。

  42. 犬守夜 雞司晨 苟不學 曷爲人 蠶吐絲 蜂釀蜜 人不學 不如物

  43. 幼而學 壯而行 上致君 下澤民 揚名聲 顯父母 光於前 裕於後

  44. 人遺子 金滿籯 我教子 惟一經 勤有功 戲無益 戒之哉 宜勉力

■ 避諱

『歷代避諱字彙典』 上記「12.」のところで、「元曾」、「玄孫」、「玄曾」、「曾玄」などいろいろ出てきて、なんでここだけこんなにあるの?他はそんなにないよ、というところから調べてみると、「諱」に到達した。
 時代ごとの諱の集めた辞書、『歷代避諱字彙典』が中国のアマゾン(亚马逊)にあった。同じ本で繁体字と簡体字の2種類が出版されていたが、古典だからやはり繁体字の方でしょう。本体1,000円、送料2,000円の合計3,000円、通常の海外郵送を選択したのに何故かDHLで来た。その割には届くまで2週間以上かかったが。
 写真からも分かるように、インクが乾く前に製本等をしたので表紙に何処かの本文ページが写り込んでいる。中国は文明文化において数多くの画期的な発明をするのだが、いったん作ってしまうとそれで満足してしまうのかそこからあまり発展しないのが中国のその文化感覚と言えるところもあり、この印刷技術の発明も世界最古の漢代と聞くが、そこから2000年経ってもそれがあまり変わらないと感じるのは、オールアバウトなスペインだってこういう印刷物は見たことがないからだ。

 見てみると、「至曾玄」の「玄」は、宋代と清代の両方で諱になっていて「元」に書き換えたとあった。これをもとにすれば、「玄」のあるのは宋代の諱がなくなった明代かもしれないが、その明代に記されたかもしれないモノがそのまま清代にて存続するとは思えないのは前述のように清代でも「玄」が諱に復活したからだ。
 ただ、諱の制限は4代までさかのぼると言われていて、その諱は太宗ホンタイジなので、乾隆の代までは諱になり、それ以降は一応解除となる。そこから「玄」が復活した可能性もある。

 「首孝悌 次見聞 知某數 識某文」の「某」がずっと気になっていた。
 どの注釈を見てもあまりはっきりしていなくて最も分かりにくい箇所かもしれない。こういう啓蒙的な文章の記述として、あいまいな「某」には違和感がある。「數」は十進法などの数字、「文」は単純に「文字」などの注釈が多いが、「某」が付いているところではどうもすっきりしない。和訳では「某」を「それぞれ」とかになっているのがあるが微妙な訳だと感じる。
 また「數」には道理・法則・すじみち、「文」には天文・礼儀・すじみちなどの意味があり、こっちかなと思うも「某」があるので「なにがしの道理」や「なにがしの礼儀」では、これもまたやはり奇妙である。
 「某」は異同はまったくないが、諱の代替文字の一つなので、もしかしたらこれもか、と調べてみたら、その辞書においては唯一「丘」があった。「丘」でも意味は通じるのだが、儒者が孔子の「名(諱)」を使うとは思えないので、今のところ「某」はやはり「某」として「なにがし」とが訳すしかないようだ。
 ただ、同じ「某」でも日本語と中国語では同じような意味だとしてもニュアンスが違うこともあり、ここを気になり違和感のあるところは、今の私の語学力の低さからかもしれない。

■ My『三字経』

 上記「異同」などの考察から自分なりの『三字経』を作成し、覚えやすいように殆どを8句で区切った。
 覚える時にはワープロ等で縦書きに変換しそれをプリントアウトした。
 漢字は少しでも宋代の雰囲気を出そうと旧漢字や繁体文字等を使った。実際は沢山の異体字が存在していたのでどれが正しい漢字かというのは分からないのもある。

人之初 性本善 性相近 習相遠 苟不教 性乃遷 教之道 貴以專
昔孟母 擇鄰處 子不學 斷機杼 竇燕山 有義方 教五子 名俱揚
養不教 父之過 教不嚴 師之惰 子不學 非所宜 幼不學 老何爲
玉不琢 不成器 人不學 不知義 爲人子 方少時 親師友 習禮義
香九齡 能溫席 孝於親 所當執 融四歲 能讓梨 弟於長 宜先知
首孝悌 次見聞 知某數 識某文 一而十 十而百 百而千 千而萬
三才者 天地人 三光者 日月星 三綱者 君臣義 父子親 夫婦順
曰春夏 曰秋冬 此四時 運不窮 曰南北 曰西東 此四方 應乎中
曰水火 木金土 此五行 本乎數 曰仁義 禮智信 此五常 不容紊
稻粱菽 麥黍稷 此六穀 人所食 馬牛羊 雞犬豕 此六畜 人所飼
曰喜怒 曰哀懼 愛惡欲 七情具 匏土革 木石金 與絲竹 乃八音
高曾祖 父而身 身而子 子而孫 自子孫 至曾元 乃九族 人之倫
父子恩 夫婦從 兄則友 弟則恭 長幼序 友與朋 君則敬 臣則忠 此十義 人所同
凡訓蒙 須講究 詳訓詁 明句讀 爲學者 必有初 小學終 至四書
論語者 二十篇 群弟子 記善言 孟子者 七篇止 講道德 說仁義
作中庸 子思筆 中不偏 庸不易 作大學 乃曾子 自修齊 至平治
孝經通 四書熟 如六經 始可讀 詩書易 禮春秋 號六經 當講求
有連山 有歸藏 有周易 三易詳 有典謨 有訓誥 有誓命 書之奧
惟周公 作周禮 著六官 存治體 大小戴 註禮記 述聖言 禮樂備
曰國風 曰雅頌 號四始 當諷詠 詩既亡 春秋作 寓褒貶 別善惡
三傳者 有公羊 有左氏 有穀梁 經既明 方讀子 撮其要 記其事
五子者 有荀揚 文中子 及老莊 經子通 讀諸史 考世系 知終始
自羲農 至黃帝 號三皇 居上世 唐有虞 號二帝 相揖遜 稱盛世
夏有禹 商有湯 周文武 稱三王 夏傳子 家天下 四百載 遷夏社
湯伐夏 國號商 六百載 至紂亡 周武王 始誅紂 八百載 最長久
周轍東 王綱墜 逞干戈 尚遊說 始春秋 終戰國 五霸彊 七雄出
嬴秦氏 始兼併 傳二世 楚漢爭 高祖興 漢業建 至孝平 王莽篡
光武興 爲東漢 四百年 終於獻 蜀魏吳 爭漢鼎 號三國 迄兩晉
宋齊繼 梁陳承 爲南朝 都金陵 北元魏 分東西 宇文周 與高齊
迨至隋 一土宇 不再傳 失統緒 唐高祖 起義師 除隋亂 創國基
二十傳 三百載 梁滅之 國乃改 梁唐晉 及漢周 稱五代 皆有由
炎宋興 受周禪 十八傳 南北混 十七史 全在茲 載治亂 知興衰
讀史者 考實錄 通古今 若親目 口而誦 心而惟 朝於斯 夕於斯
昔孔子 師項橐 古聖賢 尚勤學 趙中令 讀魯論 彼既仕 學且勤
披蒲編 削竹簡 彼無書 且知勉 頭懸梁 錐刺股 彼不教 自勤苦
如囊螢 如映雪 家雖貧 學不輟 如負薪 如掛角 身雖勞 猶苦卓
蘇老泉 二十七 始發憤 讀書籍 彼既老 猶悔遲 爾小生 宜早思
若梁灝 八十二 對大廷 魁多士 彼既成 眾稱異 爾小生 宜立志
瑩八歲 能詠詩 泌七歲 能賦棋 彼穎悟 人稱奇 爾幼學 當效之
蔡文姬 能辨琴 謝道韞 能詠吟 彼女子 且聰敏 爾男子 當自警
唐劉晏 方七歲 舉神童 作正字 彼雖幼 身已仕 爾幼學 勉而致 有爲者 亦若是
犬守夜 雞司晨 苟不學 曷爲人 蠶吐絲 蜂釀蜜 人不學 不如物
幼而學 壯而行 上致君 下澤民 揚名聲 顯父母 光於前 裕於後
人遺子 金滿籯 我教子 惟一經 勤有功 戲無益 戒之哉 宜勉力

■ 三字経ピンイン

 唐代辺りから音韻変換が始まり宋代もそれが継続していたので、果たしてどのように発音されていたのかは分からないところもあるらしい。なので、ここは普通に現代の発音に合わせてのピンイン表記。


rénzhīchūxìngběnshànxìngxiāngjìnxíxiāngyuǎn
人之初性本善性相近習相遠
gǒubùjiàoxìngnǎiqiān jiàozhīdàoguìyǐzhuān
苟不教性乃遷教之道貴以專
xīmèngmǔzélínchùzǐbùxuéduànjīzhù
昔孟母擇鄰處子不學斷機杼
dòuyānshānyoǔyìfāngjiàowǔzǐmíngjùyáng
竇燕山有義方教五子名俱揚
yǎngbùjiàofùzhīguòjiàobùyánshīzhīduò
養不教父之過教不嚴師之惰
zǐbùxuéfēisuǒyíyòubùxuélǎohéwéi
子不學非所宜幼不學老何爲
yùbùzhuóbùchéngqìrénbùxuébùzhīyì
玉不琢不成器人不學不知義
wéirénzǐfāngxiàoshíqīnshīyoǔxílǐyì
爲人子方少時親師友習禮義
xiāngjiǔlíngnéngwēnxíxiàoyúqīnsuǒdāngzhí
香九齡能溫席孝於親所當執
róngsìsuìnéngrànglídìyúzhǎngyíxiānzhī
融四歲能讓梨弟於長宜先知

shǒuxiàotìcìjiànwénzhīmǒushùshímǒuwén
首孝悌次見聞知某數識某文
yīérshíshíérbǎibǎiérqiānqiānérwàn
一而十十而百百而千千而萬
sāncáizhětiāndìrénsānguāngzhěrìyuèxīng
三才者天地人三光者日月星
sāngāngzhějūnchényìfùzǐqīnfūfùshùn
三綱者君臣義父子親夫婦順
yuēchūnxiàyuēqiūdōngcǐsìshíyùnbùqióng
曰春夏曰秋冬此四時運不窮
yuēnánběiyuēxīdōngcǐsìfāngyìnghūzhōng
曰南北曰西東此四方應乎中
yuēshuǐhuǒmùjīntǔcǐwǔxíngběnhūshù
曰水火木金土此五行本乎數
rìrényìlǐzhìxìncǐwǔchángbùróngwěn
曰仁義禮智信此五常不容紊
dàoliángshūmàishǔjìcǐliùgǔrénsuǒshí
稻粱菽麥黍稷此六穀人所食
mǎniúyángjīquǎnshǐcǐliùchùrénsuǒsì
馬牛羊雞犬豕此六畜人所飼
yuēxǐnùyuēāijùàiwùyùqīqíngjù
曰喜怒曰哀懼愛惡欲七情具
páotǔgémùshíjīnyǔsīzhúnǎibāyīn
匏土革木石金與絲竹乃八音
gāozēngzǔfùérshēnshēnérzǐzǐérsūn
高曾祖父而身身而子子而孫
zìzǐsūnzhìzēngyuánnǎijiǔzúrénzhīlún
自子孫至曾元乃九族人之倫
fùzǐēnfūfùcóngxiōngzéyoǔdìzégōng
父子恩夫婦從兄則友弟則恭
zhǎngyòuxùnyoǔyǔpéngjūnzéjìngchénzézhōngcǐshíyìrénsuǒtóng
長幼序友與朋君則敬臣則忠此十義人所同

fánxùnméngxūjiǎngjiūxiángxùngǔmíngjùdòu
凡訓蒙須講究詳訓詁明句讀
wéixuézhěbìyoǔchūxiǎoxuézhōngzhìsìshū
爲學者必有初小學終至四書
lúnyǔzhěèrshípiānqúndìzǐjìshànyán
論語者二十篇群弟子記善言
mèngzǐzhěqīpiānzhǐjiǎngdàodéshuōrényì
孟子者七篇止講道德說仁義
zuòzhōngyōngzǐsībǐzhōngbùpiānyōngbùyì
作中庸子思筆中不偏庸不易
zuòdàxuénǎizēngzǐzìxiūqízhìpíngzhì
作大學乃曾子自修齊至平治
xiàojīngtōngsìshūshúrúliùjīngshǐkědú
孝經通四書熟如六經始可讀
shīshūyìlǐchūnqiūhàoliùjīngdāngjiǎngqiú
詩書易禮春秋號六經當講求
yoǔliánshānyoǔguīcángyoǔzhōuyìsānyìxiáng
有連山有歸藏有周易三易詳
yoǔdiǎnmóyoǔxùngàoyoǔshìmìngshūzhīào
有典謨有訓誥有誓命書之奧
wéizhōugōngzuòzhōulǐzhùliùguāncúnzhìtǐ
惟周公作周禮著六官存治體
dàxiǎodàizhùlǐjìshùshèngyánlǐyuèbèi
大小戴註禮記述聖言禮樂備
yuēguófēngyuēyǎsònghàosìshǐdāngfěngyǒng
曰國風曰雅頌號四始當諷詠
shījìwángchūnqiūzuòyùbāobiǎnbiéshàn'è
詩既亡春秋作寓褒貶別善惡
sānchuánzhěyoǔgōngyángyoǔzuǒshìyoǔgǔliáng
三傳者有公羊有左氏有穀梁
jīngjìmíngfāngdúzǐcuōqíyàojìqíshì
經既明方讀子撮其要記其事
wǔzǐzhěyoǔxúnyángwénzhōngzǐjílǎozhuāng
五子者有荀揚文中子及老莊
jīngzǐtōngdúzhūshǐkǎoshǐxìzhīzhōngshǐ
經子通讀諸史考世系知終始

zìxīnóngzhìhuángdìhàosānhuángjūshàngshì
自羲農至黃帝號三皇居上世
tángyoǔyúhàoèrdìxiāngyīsùnchēngshàngshì
唐有虞號二帝相揖遜稱盛世
xiàyoǔyǔshāngyoǔtāngzhōuwénwǔchēngsānwáng
夏有禹商有湯周文武稱三王
xiàchuánzǐjiātiānxiàsìbǎizǎiqiānxiàshè
夏傳子家天下四百載遷夏社
tāngfáxiàguóhàoshāngliùbǎizǎizhìzhòuwáng
湯伐夏國號商六百載至紂亡
zhōuwǔwángshǐzhūzhòubābǎizǎizuìchángjiǔ
周武王始誅紂八百載最長久
zhōuzhédōngwánggāngzhuìchěnggāngēshàngyoúshuì
周轍東王綱墜逞干戈尚遊說
shǐchūnqiūzhōngzhànguówǔbàqiángqīxióngchū
始春秋終戰國五霸彊七雄出
yíngqínshìshǐjiānbìngchuánèrshìchǔhànzhēng
嬴秦氏始兼併傳二世楚漢爭
gāozǔxīnghànyèjiànzhìxiàopíngwángmǎngcuàn
高祖興漢業建至孝平王莽篡
guāngwǔxīngwéidōnghànsìbǎiniánzhōngyúxiàn
光武興爲東漢四百年終於獻
shǔwèiwúzhēnghàndǐnghàosānguóqìliǎngjìn
蜀魏吳爭漢鼎號三國迄兩晉
sòngqíjìliángchénchéngwéináncháodūjīnlíng
宋齊繼梁陳承爲南朝都金陵
běiyuánwèifēndōngxīyǔwénzhōuyǔgāoqí
北元魏分東西宇文周與高齊
dàizhìsuíyītǔyǔbùzàichuánshītǒngxù
迨至隋一土宇不再傳失統緒
tánggāozǔqǐyìshīchúsuíluànchuàngguójī
唐高祖起義師除隋亂創國基
èrshíchuánsānbǎizǎiliángmièzhīguónǎigǎi
二十傳三百載梁滅之國乃改
liángtángjìnjíhànzhōuchēngwǔdàijiēyoǔyoú
梁唐晉及漢周稱五代皆有由
yánsòngxīngshòuzhōushànshíbāchuánnánběihùn
炎宋興受周禪十八傳南北混
shíqīshǐquánzàizīzǎizhìluànzhīxīngshuāi
十七史全在茲載治亂知興衰
dúshǐzhěkǎoshílùtōnggǔjīnruòqīnmù
讀史者考實錄通古今若親目
kǒuérsòngxīnérwéizhāoyúsīxīyúsī
口而誦心而惟朝於斯夕於斯

xīkǒngzǐshīxiàngtuógǔshèngxiánshàngqínxué
昔孔子師項橐古聖賢尚勤學
zhàozhōnglìngdúlǔlúnbǐjìshìxuéqiěqín
趙中令讀魯論彼既仕學且勤
pīpúbiānxiāozhújiǎnbǐwúshūqiězhīmiǎn
披蒲編削竹簡彼無書且知勉
tóuxuánliángzhuīcìgǔbǐbùjiàozìqínkǔ
頭懸梁錐刺股彼不教自勤苦
rúnángyíngrúyìngxuějiāsuīpínxuěbùchuò
如囊螢如映雪家雖貧學不輟
rúfùxīnrúguàjiǎoshēnsuīláoyoúkǔzhuó
如負薪如掛角身雖勞猶苦卓
sūlǎoquánèrshíqīshǐfāfèndúshūjí
蘇老泉二十七始發憤讀書籍
bǐjìlǎoyoúhuǐchíěrxiǎoshēngyízǎosī
彼既老猶悔遲爾小生宜早思
ruòliánghàobāshíèrduìdàtíngkuíduōshì
若梁灝八十二對大廷魁多士
bǐjìchéngzhòngchéngyìěrxiǎoshēngyílìzhì
彼既成眾稱異爾小生宜立志
yíngbāsuìnéngyǒngshībìqīsuìnéngfùqí
瑩八歲能詠詩泌七歲能賦棋
bǐyǐngwùrénchéngqíěryòuxuédāngxiàozhī
彼穎悟人稱奇爾幼學當效之
càiwénjīnéngbiànqínxièdàoyùnnéngyǒngyín
蔡文姬能辨琴謝道韞能詠吟
bǐnǚzǐqiěcōngmǐněrnánzǐdāngzìjǐng
彼女子且聰敏爾男子當自警
tángliúyànfāngqīsuìjǔshéntóngzuòzhèngzì
唐劉晏方七歲舉神童作正字
bǐsuīyòushēnyǐshìěryòuxuémiǎnérzhìyǒuwéizhěyìruòshì
彼雖幼身已仕爾幼學勉而致有爲者亦若是

qiǎnshǒuyèjīsīchéngǒubùxuéhéwéirén
犬守夜雞司晨苟不學曷爲人
cántǔsīfēngniàngmìrénbùxuébùrúwù
蠶吐絲蜂釀蜜人不學不如物
yòuérxuézhuàngérxíngshàngzhìjūnxiàzémín
幼而學壯而行上致君下澤民
yángmíngshēngxiǎnfùmǔguāngyúqiányùyúhòu
揚名聲顯父母光於前裕於後
rényízǐjīnmǎnyíngwǒjiàozǐwéiyījīng
人遺子金滿籯我教子惟一經
qínyǒugōngxìwúyìjièzhīzāiyímiǎnlì
勤有功戲無益戒之哉宜勉力

■ 奮闘履歴

  • 2014年5月:三字経の暗記開始。

  • 2014年10月:三字経を暗記中。途中、こういうのをちょこちょことアップでもしないと根気とやる気をキープできない。よって覚え切るまであれやこれやと随時更新中。現在、999文/1068字。

  • 11月10日:やっと覚えた。だいたい6ヶ月である。ただ、覚えたと言っても、取り敢えず頭に入れただけなので、つっかえながらただたどしく言って40分ぐらいかかってしまうのだ。せめて、ある程度なめらかに15分ぐらいで言えるようになるのにはまだ半年ぐらいはかかるだろう。若ければもっと早いと思うのだけど。

  • 12月10日:相変わらずつっかえつっかえだけど30分以内で言い切れるようになった。

  • 12月20日:なかなかスラスラとは言えず調子が良いと25分というのがあるが、15分というのはかなり先だ。
     私の中国語教室は地元の日中友好協会という共産党系の団体が運営していて、その団体が主催するいわゆる春節の新年会が2月中旬に行われ、そこで三字経を発表するのを目標にしていた。
     しかし聞いてみると発表時間はだいたい10分とのこと。三字経を10分なんてあと2ヶ月では無理の中の無理だ。その日までは一応暗誦の練習はするけど、歴史の部分だけを発表か、でも中途半端だ。

  • 12月30日:このくらいの量の暗記モノになると、当然ながら漢字やピンイン、四声などを覚えていないと暗誦できないわけだが、覚えたはずの漢字が書けなかったりしてビックリ。
     幾つかの難しい漢字や似たような漢字があってどっち?みたいなのがいつの間にか書けなかったりして、これはヤバいぞ。朗読後に書き取りの練習〜。

  • 2015年1月16日:三字経を10分でというのは諦めた。中年おやじの外国語の暗記モノは、つっかえながらもたどたどしくも暗誦して言い切るだけでOKとしたい。
     でも、せっかく覚えたのに人前で発表する機会がないというのも寂しいので、この「三字経」の存在を教えてくれた中国語教室での発表時間に述べることにした。ただ、こんなのを一気に喋ったら確実に座布団が飛んでくるので、4つに分けて発表することにした。これなら各パート数分で終わる。
     終わるとなれば、例えば時間潰し的に電車に乗っていたりする時に暗誦するぐらいなので、時とともに忘れてしまうのがちと惜しい気もするが、いつまで経っても忘れないというのは子供の時に覚えたものだけなので、これは仕方なくここでピリオッドを打つことにした。

  • 2015年2月1日:散歩していたり電車に乗っている時など、自然と三字経を暗誦している自分がいる。一応は修了したので強い意識や義務感はもうないが、飽きてしまうまでのんびりとテーマソング風に暗誦し続けているようだ。
  • 2015.1


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