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親父の実家が福島県の白河だったので、小学生の頃は、休みになると長期間、親に連れていってもらった。
日本の高度経済成長期、東京オリンピックのあった頃だ。私の住む浦和も都会化していった時に、決して浦和では見られないモノがたくさんあったのが親父の田舎だ。
子供にとっては何よりも冒険の場所であった近所の「秘密基地」なんぞは、赤ちゃんのおしゃぶりにも見えてしまうくらいの魅力にあふれていた。
それまで川とか湖、池などは総てが濁っているモノと思っていたのが、こちらに来てみれば、どれも透明で澄んでいる。
田んぼを歩けば、蛭(ヒル)もいれば、鯉もどじょうも鮒もいて、みんな天然なのだ。イナゴはそのまま煮てバリバリとカルシウム摂取。
そして、ハチが襲ってくれば、逃げるのではなく地面に顔を伏せて腹ばいになり、ハチが飛び去るまで待て、イボカエルの棲む湧き水は飲んでも大丈夫だ、この葉っぱはウルシだから触るな、アリ地獄の捕まえ方はこうだ、などなど、キッズサバイバルを伝授してくれたのが、ちょうど実家の裏に住んでいた、3つ年上の竹井くんだった。
若き日のとらさん |
その部屋の壁には家族の戦死者の遺影が幾つか掛けてあった。
父親のとらさんの兄弟だろうか、空母「加賀」に乗っていたんだと、竹井くんが言っていたのが今でも印象的。とらさんは正しい東北人気質で、いつも飲んでいた。当時将棋が好きだったボッキ〜中島少年は、よくとらさんに相手してもらったけど一回ぐらいしか勝ったことがなかった(勝たせてもらったのだろう)。
田舎に行く度に竹井くんと遊んでいたけど、お互い中学に入りいろいろ忙しくなってくると、田舎への足も途絶えがちになった。そして竹井くんとも疎遠になったまま、この歳になってしまった。
後年、そのとらさんも亡くなり、竹井くんが店を継ぎ、ラーメンブームと重なって大繁盛で行列ができるほど有名になった、と親戚のおじさんから聞いた。
白河と言っても市街地ではなく、棚倉方面へ数キロ行った「双石(くらべいし)」という集落にあるのだから行くのも大変じゃないかと思う。
それだけ美味いんだろうな。そのうち、子供と一緒に遊びに行き、竹井くんとも会いたいな、なんて思っていたら、あれま、その竹井くんところのラーメンがカップラーメンとなってコンビニで売っていた。
名前も「とら食堂」。福島白河、チャーシュー麺と追記してある。
カップラーメンでの味は、広東風ラーメンと東京ラーメンの中間ぐらいで、どちらかというと、さらっとした感じの中にしっとりさがある風味。
「カップヌードル」を最初に食べたボッキ〜中島少年の保守的性格からすれば、中の上ぐらいの美味さだ。ドライにしろ、チャーシューが3枚も入っているのは太っ腹。
蓋を見たら、あの竹井くんが写っていた。懐かし〜、ちょっと痩せたかな。もう35年くらい会っていない。
うんうん「とらラーメン」とかじゃなくて「とら食堂」と昔のままだ。「店主 竹井和之 監修」と記してあって、なんか自分のように嬉しいぞ。
製造は、あの化粧品で有名な「kanebo」。
ところで、白河と言えば、昔から蕎麦が有名だ。
痩せた土地だから蕎麦しか育たないからか?だけど、ここ福島は米にしろ農産物の宝庫なのに、何故にして蕎麦が有名に?
江戸時代の五街道の一つが白河。伊達藩の笹蒲鉾の村おこしではないけど、白河藩主が蕎麦が好きだったからかな、と勝手に推測。
その蕎麦にうるさい白河人が認めた「とら食堂」の中華そば、やっぱ美味いんだろうなぁ。
従兄弟が白河へ墓参りに行くというので娘と一緒に車に乗せてもらい、35年振りに親父の田舎へ行った。
昔の恋人に会うように、どんなに変わってしまったのか不安と喜びで訪れてみれば「こんな道、あったっけ?」
新幹線が通り、在来線「白河駅」よりも「新白河駅」の方が栄え、そこへのルートとして山を切り開いてできた道から来たとのこと。むかし竹井くんと良く遊んだほこらの山の横を横切っていて、そのほこらも整備の為半分ぐらい埋まっていた。
田舎の家は私を35年前のままで迎えてくれた。
納屋兼別棟もそのままだし、その開け放たれた2階の窓を見上げてみればその天井に沢山のペナントが張ってあり、これを見てペナント集めを始めた9才の頃の自分を思い出した。置き放たれた耕耘機、いつも寝ていた部屋、大きな台所、掘りごたつに雪見窓のある障子、独特の田舎の匂い。タイムスリップしたような光景が静かに流れ、まさにニューシネマパラダイスの主人公だ(涙)。
隣の竹井くんの家は、と見てみたら駐車場になっていて、あれれ?
その隣に「とら食堂」がデ〜ン、その隣に一回り大きな家がデ〜ン、とそびえ立っていた。家の方は御殿に等しく、もしラーメン屋を廃業してもそのまま旅館を経営してもおかしくないくらいの大きさだ。
竹井くんのラーメンを食べたいも並ぶのはなぁ、と思っていたら、田舎のおじさんが「んな、いつも並ぶなんかしないぞ〜。待たないで裏から入ってすぐだよ」なんて言った。でも嫌だなぁ、変な特権階級的に横入りするのは恥ずかしいし、うーん、私と娘は根性で並ぶかぁ、と覚悟を決めていた。おじさん、話しをはしょらないでくれよ。ちゃんとあらかじめ予約してのことではないか。開店11時ちょっと前に、みんなで裏から入った。
その前、着いてすぐ竹井くんに会いに行った。私のこと覚えているかなぁ、と不安に思いながらも、私の方もやや記憶があぶない・・。
会った瞬間、あの35年前の竹井くんの顔が蘇った。まったく変わらない。
私が行くことをおじさんから聞いていたのだろう「おぉ、面影あるね、それにカメラマンらしいじゃない、ケンちゃん!」
握手をしながらも仕込みで忙しいところなので早々に辞したが、もうちょっとじっくりと話しをしていたら、目の前の竹井くんの姿がうるんで良く見えなかったかもしれない。
小さいパンフレットが置いてあり、その中に「とら食堂 弟子一門」ページがあった。それぞれ独立した店舗が13ぐらい紹介されていて「とら屋3号店・○×」などかな思ったら、「とらや分店」と記されているのが3軒しかなく他は適当な名前ばかり。
個の技量と名声でピラミッドができ上がり、その頂点に立ちながらもその名前云々にこだわらないのはご立派としか言いようがない。「とら屋・○×店」かなぁなどと思っていた自分がちょっと恥ずかしかったな。ごめん、竹井くん。
初めて食べた。
とんこつ味は、その味を食べながら育った九州地方の人達のみが分かる味で、味噌煮込みうどんの八丁味噌は尾張。竹井くんところの味は、まさに東京ラーメン(昔風に言えば支那そば)だ。
今、こういう味のラーメンを東京の何処で食べられるのだろうか。神保町の「さぶちゃん」くらいかなぁ。小さい頃に食べていたラーメンそのものの味だ。
燻してあるチャーシューは私の好みではないが、麺とスープがお世辞抜きに逸品の一言に尽きる。
親戚のみんなに「竹井くんところの麺は、シコシコさと柔らかさが絶妙で美味いねぇ」と言ったら「トラさん仕込みで自分ところで作っているから当たり前だ」と言われたが、私にとっては、ラーメンの美味さよりも竹井くんの作ったラーメンを食べたことの方が嬉しかったんだけどな。
昔、竹井くんと遊ぼうと家に行ったら、友達と遊びに行っていたのか竹井くんはいなくてお父さんのトラさんだけがいて、「んじゃ、将棋でもやるか?」と何回かやった後に、「ケン坊、ラーメンでも喰うか?」と作ってくれた記憶があるのだが、味は記憶していないのが未だ持って悔やまれるも、小学生に味なんて分かるか?
蚕がたくさんいた昔の家の跡は大きな駐車場になっていて、福島県にいながら福島ナンバーの車を探すのが大変ぐらい県外ナンバーばかり。いわき・宮城・習志野・栃木・宇都宮・大宮・練馬・足立・・・。
ここに来るまで「されどラーメンでもたかがラーメン、いくらなんでも首都圏からここまでラーメンを喰いに来るなんて、近所のラーメン屋を知らないんじゃない?」。
そして「美味しい物には目がなくて、どこでも行ってしまうのですよ」なんてぇのは美徳ではないと思っていたが、ある意味、竹井くんのラーメンを食べに来るも、それに合わせてドライブというレジャーとして考えればありかな、なんて、最後の汁を飲みながら思った。
唐突に娘が「とーちゃん、もう食べられないから喰ってくれ」と。
ま、2/3は食べたから良いかなと思うも、うげげ、ここで残したら竹井くんに悪いなと思って、残りをきっちり喰った。でも娘よ、漫画読みながら喰うのはやめてくれ(それもヤンジャン)、麺が延び切っていたぞ〜。
持ち帰りもあるじゃないかい。3食セット数百円。
んじゃ帰りにカミさんや友達に買ってゆこうと思ったら、3つプレゼントされてしまった。
アニキとツーショット 2006.11 |