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吉見の百穴 2009.10.19

吉見の百穴  40年前に小学校の遠足で来たのが最初。
 その後クレー射撃をやっていたのでお隣風の百穴射撃場へ、そして15年くらい前に飼っていた猫のミーコが死んで東松山メモリアルパークへ・・・思いの他、この東松山周辺は馴染み深い。
 もっとも百穴射撃は東松山市だけど残りの2つは比企郡吉見町だ。

 埼玉県県央部に位置する吉見の百穴。
 何回も行きながらもどういう場所なのかが全然分からなかった。古代人の住居の跡かな・・ぐらい。
 実は古墳時代の横穴墓とのこと。
 因みにお役所では「ヒャクアナ」と記してあるが、やっぱここ「ヒャッケツ」でしょ〜。

 入場料を払って中に入ると目の前にお土産屋さんがあって、そこでラムネを飲んで一休み。貴重な出土品なんかも展示してあって、とてもお土産屋さんには見えない。
 インテリなおにーさんがいて、いろいろ百穴についてレクチャーを受ける。
 明治時代に発掘調査が行われ今のような外観になったけど、それまでは石の扉で封印され周りは土に覆われて単なる小山で誰も気にも留めなかったところ、何かの拍子でその扉を見つけての大発見と相成ったそうだ。

吉見の百穴  店の奥には昔の写真パネルが飾られていた。
 その明治の時にアメリカの写真家がここを訪れて撮った写真などだ。百穴同様周辺の人々も珍しかったのだろう、市井のスナップが興味深い。
 明治になっても昔の名残でちょんまげをしている人も写っている。

 何故かそのカメラマンは撮ったフィルムを持ち帰らず、懇意にしてくれた地元の人に預けて帰国したらしい。
 その懇意の縁故者がそのインテリ風のおにーちゃん。
 当時は今のようなフィルムではなくガラスに乳剤を塗った乾板だ。大全紙に伸ばしているので、8×10か10×12の乾板を密着して、それを複写 → 引き伸ばしたのだろう。
 私は出土品よりもこの写真の方に大きな興味を覚えた。

 墓だから骨とかは?と聞くと、殆ど風化していて良く分からないそうだ。
 そのまま入れる大きな洞窟は、その墓とは違って、終戦間際に作られた軍需工場の跡。
 入り口付近の小さな穴を見ると「国指定天然記念物ヒカリゴケ」と記してあった。
 南西に面している場所にヒカリゴケなんてなんで生息しているの?

吉見の百穴 一定の気温と湿度を好むコケならば庇でも作れば、と聞くと、吉見の百穴自体は個人所有の土地だそうだ。でも、国指定史跡なので個人所有の土地でも何をするにも許可が必要とのこと。こりゃぁ大変だ。

 より興味を持たれた方は、→ 吉見町役場:吉見百穴/ヒカリゴケ

 娘の小学校の開校記念日で休みだから来たけど平日はあまり人がいなくてのんびりしていて良い。
 あと4ヶ月で無効になってしまう「子供料金」で入場した娘、この百穴の後は川越の喜多院へ。
 再び入り口にて「大人1枚、子供1枚」と言ったら受付のおじちゃんが「ホント〜?」
 「ほんと、来年1年生だから」
 「高校1年じゃないの?」
 「体はそうかもしれないけど、頭はれっきとした小学6年生だよ〜」

 洞窟と墓穴ばかりで怖がっていた百穴での娘は、こちら徳川家光ゆかりの喜多院、シンプルな庭園の園側に座って「ここに座ってのんびり・・と、最高〜」とお気に入りの様子だった。

 が、喜多院での写真を撮るのを忘れた。

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