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 web作成やhtml辞書などを見ていると「altは、アクセシビリティの観点から入れる方が良い」、「入れるべきである」とか記されている。「バリアフリーの観点からも」というのも良く目にする。

 身体的障害等の理由によって、制限のある環境にてwebを見た場合でも、ちゃんとweb内の情報が伝わるかどうか、つまり「誰でもが見ることのできるweb作成になっているか」がアクセリビリティらしい。
 サリドマイドの友人がいるが、こちらはアクセスやメール作成の大変さはあるが、webを見て読むというのは、時間さえ無視すれば可能で、尚且つホームページも作ってしまう彼を見ていたので、ひねくれた私は「目の見えない人に写真を文字で説明しても意味があるのだろうか」と、気にも止めていなかった。
 後年、全盲の人と友達になって初めて「視覚障害者が見るweb」を意識した。
 こういうのは身近にそういう人がいないとなかなか気づかないのが私の性格である。
 既婚、子供、猫、犬、愛人、宇宙人などもそうだ。犬にしたって、日常の中に自分の飼い犬が常にいて、世話をしたりしているからこそ、その感覚が分かるのであって、室内で犬を飼ったことのない私には未だそれは、知識ぐらいでしか分かり得ないのが、実は「現実」であったりする。

 目の見えない人がどうやってwebを見て理解するのかが実に不思議難解であり、それが音声リーダーによって読み上げるというのは大きなカルチャーショックだった。
 <font size=12pt> や <center> などはいちいち、カギカッコ・フォントサイズ・・・などとは読み上げないのは予想がついたが、画像のimg srcやアンカーの a href などはどうなるのだろうか?と、障害者への配慮よりも、疑問への興味の方が深かったという不届き者であった。
 障害者でも住みやすい世の中や社会を、または、差別をなくして住みやすい世の中、などという崇高な思想はなく、取り敢えず自分のゆとりの中でできるのならやってみようじゃないかというぐらいの世間知らずなボッキ〜中島おやじのバリアフリーサイト構築のお話である。
 ま、動機不純でも結果として理解が深まりバリアフリーができれば、まずは良いのではというポジティブ・シンキングである(そうか?)。

 女を口説くのにいきなりズボンを降ろしたら成功率0%未満だろう(経験談ではない)。やはり傾向と対策が大事である。ということで、取り敢えずは、障害者、特に視覚障害のweb状況はどうなっているのだろうか?と、いろいろ調べてみた。

 「障碍」という言葉を良く見かけ、これは障害の害が「害である、害がある」とも取れるから、この言葉が新たに生まれたらしい。そういう配慮は嬉しい反面、日常であまり見かけない漢字を持ってくるのもなぁ。普通は読めんぞ。
 また障害者に対して「普通の人」という場合の反意語が「普通じゃない」「異常」になるのか、普通の人は「健常者」。
 とすると、「常に健康じゃない人」、「常に健やかじゃない人」とも取れないこともない。早起きが嫌いで、仕事がなければ寝る時間は「眠くなるまで」、起床時間は「目覚めるまで」の不健康な私は健常者ではないことになるかも。
 また、酒をやめない限り不治の病である痛風を持っている私は、障害者と言えるかもしれない。
 話は戻るけど、「普通の人は・・」と言う場合は、比率として捉えているので良いのではと思う。

 一番理解に苦しんだのは、視覚障害者に対する反意語である。
 「晴眼者」と言うらしい。「目が見える人」じゃダメなのかなぁ。浅薄からすると、晴れた眼を持つ人? 反意語はとてもじゃないけど言えないし、想像もしたくない印象を受けた。それとも、「親切」という単語のように、親を切るという意味ではない深い別な意味があるのだろうか。

 こういう言葉にケチをつけるつもりはなく、広く一般な公共的に物事を客観的に述べる場合、より公平性を保つ為に、かような言葉が生まれた必然性は、理解できるところもある。
 しかし、個人的には「障碍」「健常者」「晴眼者」の3つの単語は、どう考えても抵抗感を払拭できず、使おうとは思わない。いろいろな事情や実情はあると思うのだけど。

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