■ 卒業へ
9月下旬の卒業式の3ヶ月前の7月に卒論清書を提出し、その段階で取得規定単位を満たしてはいても、良く分からない口頭試問が8月下旬にある。
シラバスのフローチャートでは「口頭試問で不合格の場合は、草案指導に戻る」と、脅し文句が記されてあるので、取得規定単位を満たしていると思っていたのも、実は満たしていないかもしれない、との疑心暗鬼にかられてくる。
取得規定単位については大学では期日通知以外には教えてはくれず、不親切にも各自がシラバスで確認するしかない。昼間の通学制なら沢山同級生がいるのでいろいろな情報からそんな不安はすぐにも解消するのだが、通信制ではその同級生も希少で情報もいと少なし。
学習会にて諸先輩などから聞くのもあるのだが、学部が全然違い文学部中国学科は私1人だったので、ストレートな情報を得ることができず悶々イライラ状態が続く。
そんなところでの8月下旬の口頭試問の前に、なんと卒業式の出欠連絡通知が届く。
「8月18日現在の履修状況に基づき、卒業判定に合格されたものとして卒業式の出欠について・・・」とあり、不謹慎的にあくまでも仮定である。その8月のスクーリングの結果発表は9月10日なんだけどなぁ。せめてその発表が終わってからこういう通知を出すようにして欲しい。つーか、今もらっても分からない。通知ならまず出欠より合否だよ、佛教大学学務課ぁ〜。
それでも学務課も卒業を控えた学生の気持ちを分かっているのだろう、いつもなら切手は自分で貼ってね、というのがちゃんと52円切手があらかじめ貼ってあったからだ。
いつ卒業できんのかな?と、よりイライラの日々が続く中での口頭試問では「私は卒業式の日には出られないけど・・・」と担当教官が言っていたので、これで卒業確定かなと思うも、式まで1ヶ月のこの段階になると、そんな口頭とかでは信じられなくなり、とにかく早く通知をちょうだい、と大学に向かって叫んでしまう。
夏のスクーリングの結果発表の9月11日と同時にやっとやっと「卒業決定通知」が届き、これまたやっと2ヶ月に及ぶ悶々イライラから開放された。
■ 卒業旅行
事前にテキスト配布のないスクーリングもあると聞いた他学部だが、中国学科は常にごっそり送られてくる。ごっそりではないペラペラの場合でもそこにはぎっしり中国語が埋まっている。
そんな訳でSR中はとても飲みに行くゆとりも時間もなかったので、卒業式の前に在大阪のクラスメートなどと飲もうということになり、いつもの夜行バスにて早朝7時半に「大阪駅桜橋口アルビ前」というところに着いた。
「大阪は東京に比べて小さいから・・・」と関西の友人などが良く言うが、大阪駅は違うぞ。
梅田駅と隣接しているのもあるが、そこに付随するビルなどを含めてみるととてつもなく広く、端から端まで地下鉄1駅分はあると言っても過言でなく広大で、この広さの規模は日本一じゃないかと思う。
昼間は別な友人が大阪を案内してくれた。17年振りぐらいの再会だけど、いつもネットでやりとりしているのでそれほどの格差を感じない。でも、懐かしかったけど。
行ってみたかった通天閣へ。
通天閣の周辺の飲み屋街を新世界と言い、そこには私の好きな西岡たかしの「ジャンジャン町ぶる〜す」があるのを初めて知った。
通りを見上げると幾多の看板が視界を埋め尽くし、軒先にテーブルと椅子を出して気楽に入れる雰囲気の店が建ち並び、確かに午前中からみんな気楽に酒を飲んでいる。酒を省けば台湾にいるような感じだ。
昭和テイストたっぷりな気さくで庶民さ漂う町並みで、ここに住んだら毎日飲めて良いな、と思った。
通天閣の入場料には学割があって、明日で切れる学生証、最後の最後で初めて学割を使うことができた。学割は緑色の入場券で700円が500円、この200円と緑色はとても嬉しいぞ。
眺めの良い展望台にて、良く聞くが良く分からなかったビリケンにも会って足をなでてきて、お上りさん風に満足だった。
塔の中では、A5サイズの折畳みパンフレット「通天閣公式ガイド」が無料配布してあり、通天閣の説明の他に、切り抜き通天閣ペーパークラフトが印刷されていた。
切り取り線が入っているので、ゆっくり切り離して糊不要にて組み立ててみると、180mmの通天閣ができた。
眺めてみるとその時を懐かしくも思い出し、こういう土産モノも良いな、と思った。書斎のミニ書棚に置いた。
大阪は串カツが有名だと思ったら、この新世界がより有名みたいだ。ちょうど月島のもんじゃと同じなのかもしれない。
何件も立ち並ぶ串カツ屋があるのに、ある店だけすごい行列ができていたりするので、私にはとうてい分からない味の違いがあるのかもしれない。で、その行列には高校生ぐらいな女の子達も並んでいてびっくり。若い女の子とが並ぶと言えば、ジャニーズやAKB系のショップやスイーツの店ぐらいだ。さしずめ天丼屋やトンカツ屋に若い女の子が並んでいる、ということなのだが東京では想像に難い。想像に難いで言えば、お好み焼き定食やタコ焼き定食もそうなのだが、ちょこっと文化の違いを知っただけだけど見識が広まった。
何はともあれ本場の串カツ屋へ行く。
ソースがたっぷり入ったお椀に串カツを浸けて食べるのが本場の食べ方のようだ。「二度浸け禁止」というのを良く聞くが、ネイティブ大阪人に聞くと、食いかけの串カツを再びそのお椀に浸けて食べるのが禁止といういう意味らしいけど、それって当たり前じゃないかと思うのだけどなぁ?
それならソース注しとかに入れてかければ良いと思うのだが、お椀のソースに浸けて食べるのが本場のスタイルなのだろう。私はベチャベチャソースは好きではないので、ちょこっと浸けて食べたけど串カツの王道の食べ方ではないのだろう。
その後、テクテクと歩いて夫婦善哉で有名らしい法善寺へ。
飲み屋が建ち並ぶ石畳の細い道が法善寺横丁で神楽坂みたいだ。昼間歩く場所じゃないね、こういうところは、やはり夜だな。次回は、先の新世界やこういうところでゆっくり飲みたいところだ。
「悪質客引きに注意してください!曽根崎警察署」という看板を4回も見かけた駅からホテルまでの途中にある、お初天神でお参りをしたら夕方になってしまっていた。
大学生の卒業旅行と言えば、欧米、グアム、オーストラリアなどだったりするが、それなりに海外旅行経験のあるおやじの卒御旅行は、場所よりも中身だ、と無理に言い聞かせ1泊1日の大阪を楽しんだ。
紀伊国屋入口に18時待ち合わせ、になってはいるが、曽根崎町の地下道入口から紀伊国屋までは思いっきり遠く、東京駅から神田駅ぐらいまではあり、やはり大阪駅はデカいや。新宿の紀伊国屋ぐらいと思いながら到着してみれば、トンでもない大混雑で新宿アルタ状態になっていた。携帯がなければ、距離5mであっても遭難していたであろう。
いつもは大学の教室とかで会っているクラスメートと飲み屋にて期日迫るレポートとかを気にせず飲めるのは、かなーり新鮮である。レポートや卒論のことなどの情報交換をしながら、大阪名物の串カツをつつく。
一人は来春卒業、もう一人は1年休学、嬉しくて楽しい飲み会なのだけど、基本的に3人とも授業で会うことはもうなく、それを思うとプチお別れ会風にうっすらとした寂しさもある。
予約してくれたので2時間で追い出され、心斎橋にあるアットホームな飲み屋へ。
気が付いたら12時近くになっていて6時間ぐらい飲んだ。本当はビールを飲みたかったのだが、これだけビールを飲んだら明日の卒業式は痛風で欠席になるので、酎ハイとかで通した。しかし最後の方は記憶は微妙となり、あとでカメラを見たら、こんな写真撮ったっけ?
■ 卒業式
大阪から京都までJRの快速とかに乗ると30分弱で着いてしまう。560円なので、東京〜保土ケ谷間ぐらいだ。
大阪の駅のエスカレーターは東京とは逆で、立ち止まって乗る人は右側で歩きながら乗るのは左側だが京都はその逆で東京と同じだ。
フォッサマグナとかで分かれているものだと勝手に思っていたが、これからすると名古屋は大阪と同じなのだろうか。
いつもバスだったので初めて京都駅のホームに下り立ったけど、函館駅のようにゼロ番線があって、ちょっと旅情的でもある。
文教大学は中退だったので、自ら卒業式に出席するのは高校以来の約40年振りである。
仕事において、さまざまな大学中高の卒業式などをたくさん撮影しているので式自体はそれほど珍しくないだろうと思ってはいたが、やはりスタッフカメラマンと出席当事者では当然だけど印象が全然違っていた。2年間だったけど、やっと卒業することができた、という主観的な感動があった。
この秋の後期卒業式は春の前期のとは違い、通学制と一緒ではないので卒業者数も少ない。他の学部や学科は数名から20人とかだけど、中国学科はたったの3名。中国学科、やはりマイナーなんだなぁ。
その3名のうち出席しているのは私1人だけなので、出席者はみーんな見知らぬ人達ばかりだけど、学友会の人や、いつも喫煙所で顔を合わせてから知り合いになった「喫煙同窓生」もいたりしてちょっと安心した。
式は1時間で終わり集合写真を撮った後に、各教室に行って卒業証書を貰う。文学部は、新しい1号館の415教室。
文学部の学部長からもらうのだけど見知らぬ学部長で、確か英語学科だったかな。でも、これは学長とかを省き、見知っている同学科長とかからもらいたかったところでもある。知らない先生から貰うのは他の誰かの卒業証書を代理で貰っているような感じだ。
卒業証書には「卒業証書・学位記」とあり、私のは文学学士になっている。大学院とかに行けば、これが修士や博士とかになるのだろう。若い時にもらった中高の卒業証書なんてろくにも見なかったが、大人になってもらったものはじっくり見たりするものだ。
卒業証書を貰えば流れ解散となる授与式、何処か他人事のように座っていたら、「ご卒業、おめでとうございま〜ス!」と後ろから声をかけられた。
振り向いてみたら瀬邊先生と見知らぬ女性が立っていた。聞けば、名前だけは知っている若杉先生だ。
瀬邊先生は、1度だけしか受けていないが児童文学の授業が印象深く大好きな先生だ。卒業すると中国文学の勉強をする機会も少なくなるので、一緒に勉強しましょう、という「佛教大学中国言語文化研究会」への入会お誘いだった。
院生でもなく大学を卒業しただけなのでレベル高過ぎですよ、これは・・と言ったら、「みなさん『聴講生』ですから大丈夫デス〜」と瀬邊先生に説得され、年1回会報発行の年会費1,000円を支払って入会する。卒業後の大学との関係を皮一枚つなぐくとができた。
■ 帰路
「荒木先生とかも研究室にまだいらっしゃいますよ〜」と、瀬邊先生が言っていたので、授与式が終わってから研究室に行ってみたが時間が遅かったのか誰もいなかった。
とぼとぼと学校を後にするのだが、一人で帰るのは宜しくないのだ。学生としてここに来るのはもう最後だなぁ、などと思ってしまいそれなりにセンチメンタルになってしまうからだ。
初めて来るこの時期の9月下旬は、西日は強いが落ちる影が初秋になっていてより気分はバイオリンになる。そう思うと、いつもバス停で降りていた千本北大路交差点や、地下鉄に乗り換えたこともあった北大路バスターミナル、京都駅に着いて振り向くと必ず目に入る京都タワーなどが早くも懐かしい光景に変わっていた。
北大路バスターミナルに行く時に見かけていて、いつか入ってみようと思っていたキッチンに入ってみた。ランチハウス「半九郎」というお店。
ハンバーグとエビフライ定食、1,000円を注文する。最後の思い出だからマズかったらどうしようかな、との不安もあったが、食べてみれば手作りのハンバーグで、キッチンらしい味の美味さで、また京都に来る時には寄ってみようと思った。
京都駅地下の伊勢丹にてカミさんへの土産、黒胡椒を買ったら後はバスに乗るだけである。
22時出発までの5時間は、いつもの漫喫「トップスカフェ」で時間をつぶす。喫煙席はVIPルームしか空いていなかったが、216円追加するだけで、6時間パックの2,160円はいつもながら安いと思う。
SNSに何か記すかな、と思うもその気力もなく、つい読みかけの「金田一少年の事件簿」を最後まで読みまくってしまった。
卒業式に出席した人は卒業証書だけが貰え、論文や記念品等、他は総ては郵送になり、それらは式の2日後に届いた。
書籍が2冊あって、売れ残りかな、と思ったが、「未知への模索:毛沢東時代の中国文学」というのがあったから、出身学部の傾向に多少合わせているようだ。他には記念品としてふくさと写真スタンドがあったけど、佛教大学卒業記念とか記してあるモノが欲しかった。個人的には、USBメモリーやジッポー、ペンケースとか。結局は、500円のぶったんマスコット人形が一番の思い出となった。
論文は7月に提出した100円ショップで売っている紙のバインダーにはさまったそのままのが送られてきたが、拙論内容と比例しているからだろうか。見てくれだけでも、もうちっとマシなファイルに入れ替えて欲しかった。
■ 鷹陵同窓会
同窓会というのもあり、通学制用のが「佛教大学同窓会」で、通信制専用のが「鷹陵同窓会(おうりょう)」である。
終身会員として1回だけ20,000円を支払うもので、学友会同様に各地域に支部がありそれぞれ活動をしているようだ。
しかし、会報誌「紫野」は、その「佛教大学同窓会」と合同発行だし、ホームページ鷹陵同窓会は、その佛教大学同窓会のサイト内に組み込まれている・・・大丈夫かなぁ。
学友会のように学習会などをそれなりにやってくれていれば嬉しいのだが、また中国学科は少数なので同学科OBとかはいるのだろうか、などの不安だらけになりながらも20,000円を振り込んだ。
■ クラスメート
入学時は4月の前期と9月の後期があり、私は後期なので同じ年の4月に入学した人は一応先輩になる。
履修スケジュールは各自それぞれなので、私が3年生の時には4年生以上がいたし、私が4年の時には3年生もいた。ただ通信制の入学は4月の前期と9月の後期があるので、例えば、冬のSRで会ったりすると、同じ3年生でも次の春に進級する人と次の秋に進級する人がいるので混同することしきりである。
そして、こういう中国学科の仲間と写真を撮った場合、何というのだろうか。
現役なので同窓生とはまだ呼べず、同期生でもなければ同級生でもない、やはりクラスメートかな。
特に意味はなく機会あれば集合写真を少し撮ったけど、今にして思えばもっと撮っておけば良かった、と後のカーニバル。大学生活での一番の思い出かもしれないからだ。
■ 彷徨
卒業後に妙齢の同級生から魯迅の「彷徨」をいただいた。
二人とも卒論のテーマは魯迅だけど、私は魯迅の文学表現系で彼女は魯迅の思想系。よって私はこの「彷徨」と「吶喊」の作品集をじっくり読めば良いのだが、彼女はそれほどじっくりじゃないにしろ魯迅の他の随筆などかなりの量の本を読まなければならず、その甲斐あってか彼女は最優秀論文賞をとった。
この本は、彼女が上海の古本屋とかで購入したもので、そこに押されているハンコとかが凄い。
1ページに丸いゴム印で「国管新中动力机器厂革命委员会 图书馆 臧书(国管新動力機器厰革命委員会)」とあって、「人民文学出版社」ともあり、おお、表4の裏表紙にゴム印で「1973年6月1日」と押してある。
1973年と言えば、文化大革命のど真ん中、私は中学3年生だった。手あかでまみれたこの本、その大革命中にどんな人が読んだのだろうか、と思うと感慨深いものがある。内容は繁体字が簡体字になっただけだけど、オリジナルを含め、どの時代の本かというところでは私にはとても貴重な本である。
ペラペラとページをめくると懐かしい文字が飛び込んでくる。
2013年の12月下旬辺りから2月一杯まで、ずっと読んでいたのでその情景が浮かび上がってくるが、年が明ければ忘れてしまうかもしれない。
読んでみれば、魯迅って小説家ではなく評論家ではないのか、と思わせるぐらい、『阿Q正伝』や『狂人日記』などは、これ文学ですか?と感じられ、完結な文学作品は『在酒楼上(酒場にて)』だけである!なんて心密かに思い何回も読んだりしたのを思い出した。
■ ファイル保存
授業等で配布されて使用した資料等、みんなどうやって保存しているのだろうか。その都度破棄しているという人もいたけど、さすがにそれはできないなぁ。中国語を勉強する限りまた何かで参考にしたりすると思うからだ。
サイズはA4とB5の2種類に分かれるだけだが、クリアーファイルなどに入れるとかさばるし取り出しに面倒というのが分かったので、簡易製本することにした。
課目ごとにまとめたのを板で挟み、のり付けの面にオルファーの小型ノコギリで溝を入れ、その溝に入り込むようやや厚めに木工用ボンドを塗る。乾いたらその上にグルーガンのボンドをまんべんなく塗り付ける。
乾いたらやや厚手の紙で作ったカバーをかぶせ、アイロンでその背面を強く温めれば簡易製本の出来上がり。
思いっきり見開いたらどうなのかは、溝の深さと木工ボンドの量にも拠るところだけど、開いてコピーを取るぐらいはOKである。
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